2020.06.22 21:36谷山のかくれ念仏昭和四十二年発行の『谷山市誌』によると、谷山にはかくれ念仏の名残の洞窟が各所に残っていると記され、11ケ所が紹介されている。しかし今は崩れたり、道路開通・宅地造成の結果、跡形も残っていない所が多い。 山田町札下の洞穴入口幅1メートル、高さ1.2メートルで、2メートル進むと壁に突き当たり、真っ暗で何も見えない。右に曲がると四畳位の広さで、御本尊を置いた場所、明り台の跡もある。左に曲がると10メートル...
2020.06.22 21:33吉野・吉田のかくれ念仏吉野のかくれ念仏の洞穴薩摩藩では、一向宗(浄土真宗)の教義(親鸞のおこした仏教宗派。阿弥陀仏に救われるかぎり師も弟子もない。信者を同朋同行とよんで平等であるという)が、領主権力の軽視にまで発展するということで、400年もの長い間禁制とし、徹底した取り締まりを行いました。一向宗の信者たちは、かくれて洞穴の中で仏像を拝み、念仏をとなえ信仰を続けました。その名ごりが、吉野地区には、12カ所残っているとい...
2020.06.22 21:14鹿児島市街地のかくれ念仏黎明館(鹿児島県歴史資料センター)鹿児島県鹿児島市城山町7番2号持念仏19世紀後半・浄福寺蔵 花岡島津六代久誠の妻が、文政7年(1824)に日置島津家から嫁ぐときに持参した仏像である。 隠横目報告18世紀中頃出水郷においては、隠横目(スパイ)を水俣に潜入させて信者の行動を報告させていた。この覚は隠横目が信者を装い一向宗(西念寺)の薩摩部屋に潜入して信者の氏名などを報告したものである。 講銭・御香銭...
2020.06.19 08:29〈寺院紹介〉西興寺宮崎県都城市高野町3020-1℡ 0986-33-2284 <沿革> 吉川迦葉が幡智吼(都城市広昌寺開基住職)の要請により西嶽村に赴任したのは、昭和2年10月15日のことであった。当寺西嶽村には、幡智吼の化導による20人ほどの同行がおり、これらの人々を中心にして説教所開設も可能であると予測されたが、しかし赴任直後の布教活動は容易でなく、予定の説教所も庄内の隣村の反対などで心ならずも開設できぬありさ...
2020.06.19 08:27〈寺院紹介〉広昌寺宮崎県都城市蔵原町10街区30号℡ 0986-22-3576 <開基住職・幡 智吼> 明治43年に幡智吼は、鹿児島へ35歳の若さで本山使僧を拝命、布教師として在鹿。 その後、ひとたび本山に帰るや、本常上人に宮崎県下に興正派が一ケ寺もない、是非開教をと上請。すでに霊山別院にあった専正学寮の監督兼教師として宗意安心を講じていた幡智吼の開教にかける情熱に、本常上人は、鹿児島開教に生命をかけた父・本寂上人...
2020.06.19 08:22〈寺院紹介〉顕正寺熊毛郡屋久島町志戸子27℡ 09974-2-1025 <開教以前> 当地は昔、日蓮宗の流れを汲む地であった。早崎家の先祖である早崎太吉は日蓮宗の僧侶となっていたが、その後、志戸子地区全員と共に真宗に転宗した経緯がある。しかし、その改宗がいつ頃のことか、また何故改宗したのか、その理由については明らかでない。 当時鹿児島と屋久島の間は、年2・3回の便船しかなく、一度出鹿すれば長年月鹿児島に滞在し、屋久...
2020.06.19 08:20〈寺院紹介〉光照寺薩摩川内市寄田町135℡ 0996-27-3964 <沿革> 此の地寄田に、当寺の開教がなされた当初の記録は何も現存していないが、当地の99%までが、白砂青松の間から眺むる甑島より移住してきた人達であることから、かつて甑島に於いて興正派の門徒であった人々が中心となり、鹿児島興正寺別院に担任教師の派遣を要請したのがそのおこりと推察される。 かくして、この地に初めて御縁を結んだのが、時の興正寺別院在勤...
2020.06.19 08:14〈寺院紹介〉高台寺霧島市牧園町高千穂3864-5℡ 0995-78-2304 <由来> 大正の初めの頃、奈良県宇智郡阪合部村樫辻の西本願寺派専崇寺の住職・坂口昭円は、本願寺布教師として、熊本県下の布教の序として、鹿児島の霧島温泉を紹介された。そこで、現地の状況を見聞してみるに下記の如き様相であったと伝えられている。 「当地には、三里離れた所に西本願寺派の寺院はあるも、参詣に不便をかこち、葬式も出来ぬまま葬ること度々...
2020.06.19 08:11〈寺院紹介〉瑞光寺日置市金峰町宮崎2960℡ 0993-77-0174 <開基住職> 開基は桑土僧雄になる。 元来本派であったが、明治9年興正派に転派。以後しばらく、兵庫県下摂津国武庫郡西武庫村の養専寺の衆徒として在籍の後、明治12年4月28日、再び薩摩の地に下り、鹿児島興正寺別院に着任した。その後、日置・永吉・吹上を中心に教線の拡張に専念する一方、故郷長崎との間を往来している。しばらく鹿児島別院の着院簿よりひろっ...
2020.06.19 08:08〈寺院紹介〉西岸寺南さつま市金峰町宮崎4365-1℡ 0993-77-0177 <開基・初代住職 桑土僧雄> 開基は、桑土僧雄(天保6年正月元旦生)といい、長崎県南高木郡杉谷村(現在の島原市杉谷下山寺)の本願寺派西方寺第十二代住職であった。 薩摩開教のきざしのみえた明治6年、西本願寺の命により、大洲鉄念等と共に薩摩に下り、鉄念は薩摩郡を巡錫し、桑土僧雄は吹上町永吉村に滞在の後、吹上町和田助代赤ケ谷の下薗次郎宅に身を...
2020.06.19 08:06〈寺院紹介〉厳浄寺日置市吹上町中之里862℡ 099-296-2178<厳浄寺の創立> 鹿児島県薩摩国日置郡伊作村字中之里 真宗興正派 説教所 右ハ明治拾壱年拾壱月四日御認可ノ上建築仕爾来永続ノ見込モ確然相立候処云々。(当寺院創設願参照) とある。 これによって、明治11年11月4日に、真宗興正派説教所として創立の認可を受けた事が判然としている。更に注目すべきは、現在の本堂建立は、上棟式の時の板書に、明治1...
2020.06.19 08:03〈寺院紹介〉円徳寺日置市吹上町田尻1765 <沿革> 円徳寺の前身は、宝集山興焉寺と号す。 永正16年己卯歳、島津太守忠隆痘疹を患い4月死す。伊作島津家十代の主忠良(日新公)の養父・島津運久は伊作田尻宝集庵に於いて太守忠隆の位牌を安置、衆僧を請し3日間の追弔法要を執行し寺格を授け、宝集山興焉寺と改称した。 興焉寺は五山派伊作多宝寺に属し、十一面観音を安置、代々の住僧学徳兼備し、衆庶の身光篤かったが、明治元年の廃仏...