〈寺院紹介〉瑞光寺

日置市金峰町宮崎2960

℡ 0993-77-0174


 <開基住職>

 開基は桑土僧雄になる。

 元来本派であったが、明治9年興正派に転派。以後しばらく、兵庫県下摂津国武庫郡西武庫村の養専寺の衆徒として在籍の後、明治12年4月28日、再び薩摩の地に下り、鹿児島興正寺別院に着任した。その後、日置・永吉・吹上を中心に教線の拡張に専念する一方、故郷長崎との間を往来している。しばらく鹿児島別院の着院簿よりひろってみると下の如く記されている。

明治12年 4月28日着 兵庫県下摂津国武庫郡

        5月26日帰 養専寺衆徒 桑土僧雄

明治14年 2月22日着 長崎県下肥前国南高来郡

        8月21日帰 杉谷村六七九 桑土僧雄

明治15年12月20日着 長崎県南高来郡杉谷村

   16年 4月10日帰       試補 桑土僧雄

明治16年12月 3日着院届

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 この間少なくとも明治13年までに、阿多在住の信者南谷藤右ェ門・中野善太郎・内野藤八の3名が代表として長崎まで赴き、阿多の地に説教所の開設を要請、桑土僧雄は薩摩に骨を埋める覚悟で阿多に入村。阿多説教所を設置したと伝えられている。

 <沿 革>

 当寺開設の年代については詳らかでないが、現在本堂の両脇にある燈籠一対に『永代経之為之建   常夜燈   明治十四巳年十二月十八日  施主 堂薗長二郎』とあることから、明治13年までに阿多説教所として開設をみた事は明らかである。

 当説教所は初め、現寺地の西、阿多村宮崎百七十番戸(現在の山口医院横)にあった。開基桑土僧雄はここに13年間在住するも、明治27年故あって同説教所を離れ、新たに同村松田内司堀に説教所(現在の西岸寺)を開設する事となった。

 然るに、同説教所は以後鹿児島別院の直轄となり、一時田宮宗忍院長が管理、その間、長尾秀禅・草薙等幾人かの院代が勤務したと伝えられている。

 <初代住職>

 奈良県大和国葛下郡盤城村字八川照久寺衆徒、布施祐淳は、先に入鹿した兄・布施祐宣(先妻が田宮宗淳の妹)等の縁戚関係もあって、明治28年2月27日鹿児島別院に着院。以後、揖宿の川尻、頴娃の郡地区に二・三年滞在の後別院に戻り、同年に阿多説教所に移り、明治34年の寺号公称をもって瑞光寺初代住職となる。後日、布施の姓を改め、堀祐淳と称した。

 時の総代頭、馬場喜右ェ門の尽力もあって、浦之名・大坂・高橋・塩屋地区まで新たに教線を拡張し、今日に至っている。昭和2年、寺地を現在地に移転、本堂落成。

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