〈寺院紹介〉西興寺

宮崎県都城市高野町3020-1

℡ 0986-33-2284


 <沿革>

 吉川迦葉が幡智吼(都城市広昌寺開基住職)の要請により西嶽村に赴任したのは、昭和2年10月15日のことであった。当寺西嶽村には、幡智吼の化導による20人ほどの同行がおり、これらの人々を中心にして説教所開設も可能であると予測されたが、しかし赴任直後の布教活動は容易でなく、予定の説教所も庄内の隣村の反対などで心ならずも開設できぬありさまであった。

 そのため吉川迦葉はしばらく同行の西万太郎宅に滞在し、説教所開設のための地道な努力を続けた結果、昭和4年4月ついに本山と宮崎県知事長船克美の認可を得て、西嶽興正派説教所を設立することができたのである。当初門徒に加入した同行は二十数人であったが、境内も750円で購入された役場の払下地が当てられるなどして、一応念仏道場としての礎が整えられることになった。

 その後、本堂建築工事が昭和26年7月31日に着工され、翌27年4月1日には竣工、ここに35万円余をもって33坪の本堂が建立されたのである。当寺の総代名簿には穐永栄次、丸山栄之助、山中清、森山喜之助、吉川市次、津曲市次、村岡進、白谷実義、中村善四郎などの名前が記録されている。なお本堂建立を記念して、俵迫吉ケ谷の九反四畝十六歩の山林に、約三千本の杉が植樹された。

 また昭和26年の宗教法人法制定に基づき、昭和27年5月29日、西嶽説教所は「西興寺」と寺号を公称することになった。西興寺初代住職は同じく吉川迦葉であるが、吉川迦葉は香川県仲多度郡出身、大正11年6月30日に鹿児島別院に着院し、以後西嶽村に赴任するまで別院勤務を続けた。赴任後は布教のかたわら昭和15年から民生委員として、昭和26年からは保護司としても活動した。また師は彫刻などにも通じ、現在西興寺にある本尊阿弥陀如来立像は自ら刻んだものであるが、端厳な相好にその技術のほどが窺えるのである。

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