〈寺院紹介〉顕正寺

熊毛郡屋久島町志戸子27

℡ 09974-2-1025


 <開教以前>

 当地は昔、日蓮宗の流れを汲む地であった。早崎家の先祖である早崎太吉は日蓮宗の僧侶となっていたが、その後、志戸子地区全員と共に真宗に転宗した経緯がある。しかし、その改宗がいつ頃のことか、また何故改宗したのか、その理由については明らかでない。

 当時鹿児島と屋久島の間は、年2・3回の便船しかなく、一度出鹿すれば長年月鹿児島に滞在し、屋久島への船便を待たねばならぬといった具合で、不便この上ない状態であった。

 その頃、商人で奈良県高田出身の藤村藤之助が商用の為鹿児島へ上った際、真宗の教義を聴聞する機会を得た藤之助の感動は大きく、帰島すると早速、自宅の中二階に御本尊(絵像)を安置して、村の庄屋の森善太郎と田実利助を自宅に招いて仏法を語った。その後も毎晩、知人を呼び深夜に礼拝し、信者の礼拝が終わるまで役人の目をのがれる為、屋敷の東西の入口に見張り人をおいて信仰を深めていったのである。

 <寺院建立>

 念仏解禁後は、藤之助の自宅に安置していた御本尊を一月毎に各戸交代で持ち回り、毎夜一カ所に集まり礼拝を続けていた。そのうち信者は増加してゆき、互いに寺院建立の必要を訴え、先ず、大工の熊本平之助が鹿児島に上り、揖宿郡頴娃村石垣の寺院(寺号不明)を模擬して設計にあたり、ついに明治17年その起工に至った。

 しかし、信者が増えたといっても僅か40戸数であり寺院建立にあたっては老若男女総出で木材運搬にあたった。建築資金も困難であったのだが丁度その頃、村の近海で鰹が2ケ月間も大漁が続き、その上、名物のトビウオも14日間大漁が続くといった具合で、信者一同の喜びは大きく、感謝と合掌のうちに益々信心も深められていった。こうして思わぬ大漁で工事も進み、明治18年落成をみたのである。その落慶法要には興正寺別院の田宮宗忍院長と3名の随行の僧侶を迎えて盛大に厳修された。

 その後、駐在教師が交代で法務を勤め、昭和23年2月28日寺号公称され、昭和48年11月より藤村憲昌が住職として今日に至っているのが当寺「顕正寺」である。


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