〈寺院紹介〉円徳寺

日置市吹上町田尻1765

 <沿革>

 円徳寺の前身は、宝集山興焉寺と号す。

 永正16年己卯歳、島津太守忠隆痘疹を患い4月死す。伊作島津家十代の主忠良(日新公)の養父・島津運久は伊作田尻宝集庵に於いて太守忠隆の位牌を安置、衆僧を請し3日間の追弔法要を執行し寺格を授け、宝集山興焉寺と改称した。

興焉寺は五山派伊作多宝寺に属し、十一面観音を安置、代々の住僧学徳兼備し、衆庶の身光篤かったが、明治元年の廃仏毀釈を以て本尊は焼却、忠隆の位牌は多宝寺に移され、更に明治2年加世田日新寺に納められた。

 明治9年、信教自由と共に、各派各檀徒その勢力を広めんと各々その縁故を辿り伊作、吉永、谷山等11ケ所に及んだ。その後明治30年頃になり、各派檀徒の有志11ケ所に分かれた信仰を一つに集めるために、田尻説教場の創設を話し合い協議するも意見相反し、公式の会議だけでも前後19回にも及んだという。

 その後ようやく、明治35年旧2月3日、田尻説教場創設の議決をみるに至ったのである。

=田尻説教場創設一覧=

明治35年2月3日  田尻説教場創設の議決なる

       2月4日  下田尻、能勢藤太郎宅にて初相続講を開く。中之里厳浄寺院代、長尾秀禅を招請説教あり

       2月5日  永吉村最勝寺門徒百五十名、有馬喜作、能勢藤太郎を総代とし、住職田宮宗忍に離檀届を提出

       2月23日 田尻説教場本堂建築を梶原源藏へ請負嘱託、鶴田河原で手斧立祝

       4月26日 同説教場本堂上棟式 長尾秀禅勤行

       6月6日  本堂竣工、落成式挙行

 

=初代住職・田宮苔道=

 田宮苔道は、父田宮苔岩(明治16年6月7日鹿児島別院着院、香川県観音寺市本派善正寺十四世大西慶道の次男)の長男で、明治33年11月16日鹿児島興正寺別院に着院、翌年5月29日付で知堂補見習を命ぜらる

大正13年4月9日 「円徳寺」と寺号公称認可

      4月17日 田宮苔道 初代住職任命

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