日置のかくれ念仏

和田かくれ念仏洞窟

吹上町和田

 中和田の町道阿弥陀坂から農道を北方に100メートル余り登った左手に、かくれ念仏の跡と

言われる洞窟がある。昔は通路から入り口も見えない地形で、高さ10メートル程のシラスの崖下に、幅3メートル、高さ2メートル。

 穴の入口上部の崩れ落ちた土砂が流れ込み、長い間埋まった儘であったが、最近穴の中央1メートル幅くらいの土砂を取り除くと、入口から30メートル程奥行きがあった。昔は抜け道もあったとの言い伝えもあるが確認できない。

 古老の話では、子供の頃近辺の信心深い先輩たちから、かくれ念仏が役人に発覚し、婦女はシュロ縄を跨いで歩かされる等の極めて過酷な拷問を受けた話を聞かされたことがあるそうだ。下和田の帖佐作内(故厳浄寺門徒・日高フクさんの祖父)も郡内の牢屋に繋留され、拷問の末ついに帰宅できなかったとの記録が残されている。


大魯和尚の墓

吹上町永吉

 大阪堺、慈光寺の住職、本名円随、西山と号し、本願寺智洞派の四天王の一人とうたわれていたが39歳の時、三業惑乱事件(宗教上の争い)で多くの学者・僧とともに追放された。肥後・天草あたりを経て薩摩に入ったが、当時真宗の教えは厳しく禁じられていたので細布講・煙草講の名で人々を集め、深夜洞穴などで教えを広めた。

 このようにして各地を回ること30年。多くの人々に慕われながら天保7年(1836)上草田の辻の久保で没した。中園氏屋敷内に葬ったが明治22年ここに改葬した。永吉中山田の光専寺境内にあって、今もなお信者から「おかさあ」「西山さあ」の墓として敬慕されている。

 上草田原園に大魯和尚が密かに法を説いた洞窟があるが、現在は入口が塞がっていて洞窟内は見ることができない。


白井月のかくれ念仏洞

日吉町

 鬼丸神社の下の南側の路を東に進むと、白井月の集落がある。以前は20数戸の人家があったが、今は過疎となって数戸の人家が点在している。道をさらに奥へ進むと、左側の一段高いところが杉林となり、中に昔の井戸がそのままに残っているが、ここが鳩野家の屋敷跡である。屋敷の裏(北側)はシラスの崖で上は山になっている。

 かくれ念仏の洞穴はこの屋敷の東方のすぐ裏のシラス崖の下に掘られている。

 入口の幅約1.8メートル、高さおよそ2メートル、奥に向かって相当深く掘られている。(約12メートル)

 

 この洞穴について次のような話がある。「昔、吉利で法難崩れというのがあって、麓の旦

那衆が遠い島に流された時、自分の家にかくしてひそかに祭っていた仏様をここの穴にこっそり運んでかくされたそうだ。そして残された家族たちは時々かくれてここに拝みに来ておられたということである。」と

 法難崩れ(弘化年間=1844~1848)で難に遭った麓の豪士たちは、島に流される直前に自家の仏壇をここに運び込み、安堵して島に流されていったのであろう。そして配流中は家族の人たちが人目を忍んでここにお参りしたのではなかろうか。

 ここは、法難崩れ事件発生より以前、すなわち禁制時代からずっと、こよなき隠れ場所として念仏の法座が開かれていた。だからこそ、ここに目をつけ仏様を隠す最適の場所として選んだのではなかろうか。


下養母のかくれ念仏洞

東市来町

下養母の個人の屋敷内にあります。江戸時代に薩摩藩では一向宗(真宗)の信仰を厳しく取り締まったので、信者たちはここに隠れて密かに信仰を続けました。

洞穴の中には、仏像を置いたと思われ る棚や空気孔なども残っています。


日置方面の興正派寺院