〈寺院紹介〉勝縁寺

南九州市頴娃町郡9404

℡ 0993-36-2628


<敬信講成立>

 幕末の頃より頴娃の地には龍谷講という念仏秘密結社が組織されていた。龍谷講には頴娃を始め、今和泉、知覧、川辺、谷山などの各地からも信者が加わり、活動は弾圧の危機の中で着実に展開されていたようである。当時本山から龍谷講宛に出された金五両の懇志受領書が現存することからも、すでに極秘のうちに本山との交流もなされていたことが認められる。

 やがて明治9年には信教の自由が保障され、白日の下での念仏活動が可能となったが、頴娃の信者達は明治16年現在の勝縁寺の地に念仏道場を設立、合わせて興正派の本山に帰依することになった。この決定は、信者代表が当時鹿児島市内にあった三派の別院にそれぞれ参詣し、検討を重ねた上でなされたものらしいが、図らずもこの時の興正派別院院長は、後に勝縁寺二代住職となった田宮宗忍であった。こうして新たな組織を確立した信者達は、それまで所属していた龍谷講と縁を切り、明治17年興正寺本山より付与された「敬信講」をもって講名とし、頴娃、今和泉地区の信者がこれに加わったのである。なお明治21年、本山は敬信講に対し双幅の御絵像(勝縁寺蔵)を下付している。

 <沿 革>

 勝縁寺の前身が敬信講であったことは先に述べたが、説教所という寺院形態をもって新たな活動が始められたのは、明治31年のことであった。この年7月に説教所設立認可を取り、8月には35坪の本堂と30坪の庫裡が建築されている。その後間もない明治33年6月には寺院創立願が出願され、同年10月には勝縁寺の寺号を公称することが許可されたが、この場合、明治政府は新寺設立を容易に認可しなかったので、幕末に兵火で焼失した京都の田宮宗忍の自坊勝縁寺を、頴娃で再興するということで許可を受けたのであった。従って頴娃の勝縁寺初代住職は田宮宗仙となっているが、実質的には二代住職田宮宗忍が最初の着任住職である。

 田宮宗忍は明治15年鹿児島開教を命ぜられ、鹿児島別院院長として、家族と共に骨を埋めるつもりで来鹿した鹿児島開教の先達である。彼の活動内容は、後日興正寺二十八世門主本常上人が、今日余があるは田宮のお陰であると御述懐されたことからも、その功績と人柄のほどが推測される。

 以下住職は三代が田宮宗淳、四代が田宮宗朝であるがいずれも鹿児島別院輪番として、教区の発展に寄与した。ただ勝縁寺沿革として、明治31年当時父宗淳が輪番職にあったため、副住職として自坊の寺務に当たっていた宗朝が、白蟻被害で痛みを受けた本堂の再建に取り組み、総工費12000円をもって昭和2年1月に着工し、翌年3月7日に78坪余の本堂を完成させたことは特筆すべき点である。なおこの再建工事に対し、本山から特に金200円を下賜されている。

 五代住職は田宮宗光であり、現在の住職は、第六代田宮宗専である。

 <境内地由来>

 幕末の頃、頴娃に井上矢七という念仏取締役がいたが、彼によって捕縛弾圧された、念仏者も多い。明治16年勝縁寺の境内となった現在地は、この井上矢七の宅地跡であるが、その為か、寺が建つまでは、茄子を植えても人の顔に似た茄子ができると言われた所で、いかにも信仰心の厚い地元民の気質が窺い知らされる。


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