〈寺院紹介〉開聞寺

指宿市開聞十町1371

℡ 0993-32-2210


 <沿革>

 昔此の地に智通和尚が開基した開聞山普門寺瑞應院があり、聖観音を本尊として村民の尊崇を得ていた。然し明治元年の廃仏毀釈により、建物・仏像・経巻等の全てが破却され、またそれまで仏教徒であった村民も全て神道一色に塗りかえられたのである。

 明治9年「信仰自由」の布達により、頴娃村石垣の大谷派の末寺が、大正の初期から当地に説教所開設を試みたが、長い間神道化された村民は、なかなか改宗することもなく、結局出張所開設は実現しなかった。

 一方、明治35年に川尻の大円寺に着院し、住職となった長尾秀禅は、時折此の地を巡回布教し、次第に住民の信任を得て、やがて十町地区と松原地区の全てが大円寺の門徒に加入するに至った。

 昭和初期になると道路も整備され、交通の中心地となり、漸次町を形成していった。こうした中に松原地区を主として、信者の説教所設立の要望が強くなり、田中吉之助、宮園善右ェ門、馬水寅次郎、山下半兵衛、道地吉次郎、津田末元等が中心となって、十町の高台に敷地392坪4合と参道30坪を開き、昭和6年11月「大円寺出張所」として設立された。

 昭和8年より創設者の長尾秀禅の意志を継ぎ、秀禅の二男長尾慈円が説教所の任に就いた。その後、門徒も次第に増加してゆき基礎も固まりつつあったが、偶々昭和18年12月28日、本堂と庫裡が焼失したのである。直に仮本堂建築を協議し、大円寺旧本堂の払い下げを願い戦時中のこともあり物資不足で再建も不自由を極めたが各方面の協力を得て、昭和19年6月仮本堂が完成した。

 昭和22年宗教法人令に基き、昔の開聞山普門寺の山号を寺号とし「開聞寺」と公称することを決め、総代津田末吉、今村直助、本田義家、道地吉次郎、山下半兵衛連署の上、寺院規則と共に承諾を得たのは同年7月28日である。

 昭和35年宗祖七百回忌の記念事業として本堂再建の議が起こり、富田雛蔵が建設委員長となり、倉山周吉、山下巌の外30名の委員の協力を得て、総額150万円の予算を以て澤田鶴雄が設計し、福元福吉が請負い、町有林の樹齢数百年の海岸松を化粧材としてあて、昭和36年に本堂が完成した。そして同年4月、宗祖七百回忌とあわせて慶讃法要を厳修した。

 昭和44年には、京都江崎グリコ取締役の上村徳盛や小磯ハルギクの寄進で牡丹孔雀本金箔の欄間が完成し馬水オモトが太子・七高僧の御影を、道地ツネが太子及び七祖前の中央卓をと寄進し、11月「開眼除幕法要」を厳修したのである。

 昭和47年庫裡建築工事を着手して、約30坪の鉄筋造りが完成した。

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