〈寺院紹介〉信楽寺

指宿市西方4808

℡ 0993-25-2305


<沿 革> 

 明治31年4月、頴娃麓の説教所開設式に参列した田宮宗忍別院院長一行は、鹿児島への帰途縁にあって野口藤太郎宅に一泊した。この寺院長宿泊と聞いて参集した人々に布教したのが宮ケ浜に一寺を建立する契機になったといわれる。当時宮ヶ浜は揖宿郡の行政中心地でもあり、また多くの同行の熱心な要請もあって、説教所開設の計画は順調に進展し、やがて明治36年9月12日真宗興正派指宿説教所として発足することになったのである。

 開設当時は、門徒中俣喜右衛門宅を仮説教所とし、別院より交代で教師が駐在し布教していたが、明治39年には旧源忠寺跡とされる現在地に本堂、庫裡が建立され、説教所としての形態が整うことになった。なお本堂の建築材木には川尻の水揚場の網収納庫が解体され使用されたというが、詳しい記録は現存していない。

 その後指宿説教所には、次々に駐在教師が配属されたが、かつて明治41年9月から43年3月まで駐在していた村上崇信が、昭和3年10月1日再度着任し、以後指宿説教所担任教師として寺務を執ることになった。宗教団体法施行に基づき、昭和17年3月30日に提出された教会規則認可申請書によると、指宿教会主管者村上崇信のほか、総代として野口藤蔵、須藤助蔵、尾之上休助、上曽山善次郎、坂元助次郎、井上猪之助等の名前が記載されているのがみられる。

 やがて昭和22年7月28日、興正派指宿教会は信楽寺と寺号公称がなされ、初代住職に村上崇信が就任した。村上崇信は福岡県京都郡の出身。明治39年3月14日に鹿児島別院に着院し、以後高田、東市来、恒吉、田部田等の各教会に駐在し、のちに昭和31年11月14日73歳で往生するまで、信楽寺で生涯の職務に尽力したのであった。

 初代住職亡き後、昭和32年2月15日第二代住職を継承したのは、崇信二男村上寛信である。求道者としての師の熱心な教化活動は、門信徒内外にわたって信望を寄せられ、信楽寺発展に貢献するところ大であったが、昭和51年1月19日享年58歳の時、惜しまれて往生したのであった。

 現在は寛信二男村上堯信が、第三代住職を継承し寺務にあたっている。

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