南さつまのかくれ念仏

二世観音

加世田市相星

 相星川を1500メートルぐらいさかのぼった所に、巨岩でできた洞窟がある。

 ここは1580年頃に内田二世が建てたといわれる二世観音が祭られ、加藤家

が代々格護(花水を供える)していた。

 江戸時代、藩の厳しい弾圧を逃れ、表面上は禅宗や真言宗を装いながら浄土真

宗(一向宗)の信仰を守り続けた人々が念仏を唱えていた。

 はじめに二世観音だけを安置していたが、一向宗の信仰禁止が厳しくなると、

弾圧を避けるため二世観音の所に阿弥陀仏を安置して、念仏を称えるようになっ

たと伝えられている。


一向宗禁制時代楽法遺跡

加世田市川畑

 藩の禁制を犯し、ひそかに一向宗(真宗)の信仰を続けた遺跡が川畑小学校の南側民有地に現存し、藩禁も恐れなかった当時の信徒たちの信仰心をしのばせている。

 かくれ念仏の洞穴の構造は、一見ただちに気付くことができないような、くぐり穴を左方に設け、この穴は湾曲している。最後にひょうたん型の洞穴があって、奥の小さい方の正面に仏像を安置し、左右のやや上方に明かりを置いたすすの跡が残っていた。

 信徒は広い方で拝んだものと思われるが、語り伝えられるところによると、信徒たちが読経するときは、青年たちを付近の要所に立ち番させたという。

 先の加世田水害のとき内部は崩壊し、現在入り口のみ現存している。


穴ん婆さん

坊津町

 京都正光寺の娘・久女(久・久子姫・京婆)が、薩摩半島西南端に上陸し、真宗伝道を行

う。

 しかし、当時薩摩は真宗禁制時代で、詮議が厳しく、久女も追われ山中の岩屋にのがれ

隠れていたが、遂にここで没した。これからこの穴を穴ん婆さんと呼ぶようになったと言

われる。


柴内の念仏洞穴

大浦町

 この柴内の念仏洞穴は集落の南西山奥「源が宿」と呼ばれる地にあり、自然石ででき

た洞穴であるが、入口は狭小でその手前に平たい自然石がある。伝えによると、この洞穴内には御本尊を安置し、信者たちは岩の間から手を差し伸べて御仏体にふれて拝したという。


シジリ山かくれ念仏碑

笠沙町

 笠沙町役場より車で約20分。野間池が眼下に見える魚路の地に、かくれ念仏跡の碑がある。

 信仰者の捕縛、拷問等繰り返される執拗な弾圧による殉教者は知られるところだけでも数万人にのぼると言われている。
 当地の篤信者木戸口作左エ門氏(明治38年死亡)も、それ故に、捕縛され拷問を被った受難者の一人であった。後年生長らえた作左エ門は親近者にその恐怖と惨状をひそかに語り伝えていたのである。
 この碑の建立は、迫害に耐え抜いた信仰者の歩みを単に美談として称賛することではなく、その時代と社会状況、宗教弾圧との関係とそのしくみが明らかに成ればとの思いからである。

             (碑の文章より抜粋)

 

     

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