〈寺院紹介〉光明寺

南九州市川辺町平山3033

℡ 0993-56-0586


光明寺の歴史・寺院

 現在の鹿児島県と宮崎県の一部が、昔、薩摩・大隅・日向と呼ばれ、薩摩藩(島津氏)の支配下にあった時代、この地方では浄土真宗は禁じられていました。浄土真宗禁制時代、薩摩の念仏に生きる人々は、厳しい弾圧が繰り返される中においてもお念仏を決して捨てなかったのです。その歴史を【かくれ念仏】といいます。

 川辺郡地方に、無辺講という強力な真宗門徒の結社がありましたが、明治9年10月、興正寺第27世本寂上人が鹿児島に念仏の灯をおひろめ下された時、10月25日、無辺講の世話方数名、鹿児島市の興正寺本山鹿児島教務出張所を尋ね、親しく上人に面接し、自今、川辺の無辺講すべてが、興正寺門徒に加入を願い上げ、翌26日、門徒代表30数名参上、直々に上人のご教論を受け、晴れて興正寺門徒となったのであります。その後、川辺町高田に高田説教所の設立をみるに到ったのであります。

 ところが、川辺町の興正寺門徒は、南部、中部、北部と大変広い地域にわたって居りますので、高田に説教所(現在の信行寺)は設立しましたが、地域的に聞法・法務等不便であったので、北部地方の門徒一同協議の結果、北部にも一ケ寺創立の議を進め、明治42年(1909年)旧正月、川辺町田部田荒木島に説教所を設立致しました。これが、昔の田部田説教所であります。

 その後、中部稲荷町の門徒が、地区をあげて説教所移転を希望し、東新左衛門様が敷地388坪を寄進され、熱心に誘致しました。そして、昭和3年に稲荷町(現在地)に説教所を移転しました。同時に庭石・イヌマキも移され、現在も当寺境内にそれが残っています。

 昭和23年、光明寺と寺号公称。

 その後、本堂が田部田説教所時代の本堂のままだったので、門徒協議の上、本堂改築に決し、昭和42年5月、現在の本堂を建立[建築委員長田中精二・工事総請負薗田政太郎・大工棟梁田中勝芳]しました。昭和52年には境内に納骨堂[建設委員長薗田藤一・設計施工㈱大成寺工務店]が完成。平成元年には庫裏[北薗建設]が新築されました。平成28年には納骨堂「倶會一處」[北薗建設・神薗鉄工建設・マエダ建築設計室]が建設されました。

 《参考》 『みあかし』「~鹿児島開教史~」早川隆雄記

     『真宗興正派鹿児島開教百年史』

光明寺の歴史・ お講

真宗弾圧の取り締まりが厳しいので信者達は、かくれ念仏となって、お互い励まし合い、連繋を一層強めるため、「講」を作り秘密結社として念仏相続していました。それらの講は「灯明講」「仏飯講」「御影像講」と名付けられたりしましたが念仏の講である事を隠すため「煙草講」「椎茸講」「細布講」と名付けられた講もありました。

 川辺には、川辺を中心に知覧・勝目にと範囲の広い「無辺講」という一つの強力な結社

があり、密かに念仏相続していました。

現在、無辺講の流れをくむ信行寺・光明寺に於いて、年2回(3月16日・9月16日)一年交替でお講さまが開かれ、正信偈唱和、本常上人御消息拝読、法話聴聞、懇親会が行われています。尚、無辺講宝物は平成8年の信行寺火災により焼失しました。

光明寺の歴史・人物

《歴代駐在教師・代務住職》

初代  石嵜教順  明治42年

二代  早川教雄

三代  神園専要

四代  松本泰然

五代  神園専要

六代  吉田善明  大正4年2月28日

七代  神余正信  大正4年9月17日

八代  村上崇信  大正5年2月25日

九代  神余正信  大正7年1月4日

十代  山口法龍  大正8年

十一代 田宮岩雄  大正10年

十二代 平井順教  昭和元年

十三代 松元明忍  昭和12年

十四代 村上顕信  昭和13年

十五代 椎原哲則  昭和13年10月

十六代 香西円量  昭和16年4月3日

十七代 池田寿雄  昭和30年3月16日

十八代 栫井秀実  昭和36年5月6日

十九代 池田寿雄  昭和41年3月28日

二十代 早川孝俊  昭和47年4月2日

二十一代 早川俊英 平成16年8月17日

(現在)

Google Map