〈寺院紹介〉西蓮寺
枕崎市別府12272
℡ 0993-76-2123
開基住職の佐藤康範は、大分県宇佐郡明治村の佐藤勝平の三男として生まれた。はじめ本派の僧侶として出家得度し、明治22年枕崎に来り、本派の寺の役僧として勤めていた。かねてより独立し一宇開設を願っていた康範は、その開設を真茅の地と定めた。そして真茅武二の屋敷に滞在(約2週間)し、明治42年8月21日、本格的布教の第一声を発したのである。
その頃真茅の念仏信者は、ここより12キロ離れた川辺郡川辺村の興正派高田説教所の門徒であった。しかし説教所が遠く離れている為に不自由な思いをしていた。それだけに康範の到来は地元の信者達から喜ばれ、また真茅新五郎など念仏禁制時代からのいわゆる「かくれ念仏者」としての熱心な信者もおり、まもなく22坪のワラ葺きの仮本堂を建立し、長崎県の方から移された御本尊(木像)が安置され、御法義はいちだんと盛んになっていった。
一方康範は、信者が高田説教所の門徒であったこともあり、自ら転派を決意し、明治44年5月2日、京都府久世郡久津川村「浄圓寺」衆徒として得度し、興正派の門流となったのである。そして転派して間もない同年8月26日、当時の鹿児島別院庶務部より「其地門徒中法務ハ従来高田説教所看守ノ取扱ニ相成居候処距離遠隔定メテ不都合ナラント察シ今回教師試補佐藤康範氏ニ法務並ニ布教ヲ申付候間自今同人ニ付キ法義相続有之度此段相達候也」と真茅門徒、俵積田門徒宛ての辞令が布達されたのである。
やがて、時の世話人であった真茅武二、真茅万太郎、駒水与助、真茅覚之助、山崎新四郎等の力を得て、敷地360坪を定め、大正5年5月、36坪の木造平屋の本堂を起工し、同年10月落成をみたのである。その落慶法要には佐野雲城・早川教雄・堀祐宣の法中が出勤した。その後昭和5年に庫裡を建築し、説教所としての地盤は固められていった。
昭和22年7月「西蓮寺」と寺号公称されたのであるが、3年後の昭和25年1月15日、開基住職の康範は67歳をもって往生したのである。住職の逝去により同年5月、西蓮寺二代目住職として佐藤利範が就任した。
昭和43年2月、本堂老朽にともない真茅敬邦・松崎吉之助・真茅秋一等を中心として本堂再建を計り、総額320万円をかけて本堂40坪が新築落成した。そして昭和45年3月26日、落慶法要ならびに宗祖七百回忌と開教60周年の記念法要を、鹿児島別院の中島千尋輪番をはじめ、宗会議員の酒匂時雄、教務所長の田宮道淳の外、早川礼信・早川孝俊・中島武人・早川教栄の法中の参列のもとに盛大に厳修された。
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