〈寺院紹介〉立真寺
枕崎市中央町262
℡ 0993-72-0230
車で鹿児島より川辺峠を越えて一時間あまり走ると遠洋漁業と鰹で知られた港町枕崎市に入る。その枕崎の港より坊津への県道を西へ2キロ行くと花渡川があり、川を渡ってしばらくすると右側に当寺がある。県道より参道をのぼると正面に本堂、その右側に納骨堂、左側に保育園がある。当寺は昭和50年4月、創立40周年の法要を勤めたばかりの歴史も新しい寺院である。
花渡川を渡った一帯を立神地区と呼ぶ。この地区は当寺設立以前、ここより約1キロ離れた東西の寺院の門徒であった。しかし御法義の厚い信者にとっては参詣するには不便であった為、かねてより近くに寺の出来ることを念願していた。大正14年になって一時、真宗寺院建立の話も盛り上がったのだが、結局既設寺院の反対でとうとう実現には至らなかった。
開基住職・酒匂義彦は地元の在家出で、鹿児島二中を卒業するや台湾に渡り、親類の篠原繁の処に遊んだ。繁は篤信の人で若い義彦を近角常観の求道会合台湾支部に毎夜の様に誘った。こんな事が仏縁となり大谷大学に学び大谷派の僧侶となり帰郷した。これによって寺院設立の気運が再燃し、昭和7年12月池上盛衛の母家を借り立神仏教クラブを結成した。しかし既設寺院の新寺設立への反対が強かったため、ついに義彦は興正派に転派する事を決意しクラブ会員一同も熱烈にこれを支持した。
興正派鹿児島別院は積極的にこれを受け入れ別院庶務係の山崎良信早速本山に申請許可されたいきさつは、今も語り草となっている。ついは昭和8年9月1日、興正派鹿児島別院出張所として設立認可された。一同が難儀苦労した末のことであり興正派に転派した感激はひとしお大きかった。この感激はそのままに会員、青年壮会、婦人会にと活動は盛り上がり本堂建立への総意となった。
そして地主の好意により校区の中心地に一千坪の敷地を得て、園田藤市が建設委員長となり9年3月定礎式を行い、同年8月9日に70坪の本堂が完成した。
御本尊は京都の藤井リウ・浅野雅三・井上新太郎が寄附したもので、京都の仏書店「丁子屋」の主人藤井清之助がお供をして来鹿した。清之助は、開基寺院の御本尊を安置出来た因縁を深く喜んだ。
昭和10年3月8日、「立真寺」と寺号公称し、一月後の4月2・3日の二日間、当時の鹿児島別院の田宮宗淳輪番を迎えて、落慶入仏式が盛大に厳修された。
昭和12年11月、鹿児島開教60周年を記念して、本昭上人の地方御巡化をおうけして帰敬式が行われた。また昭和14年には立神託児所を開設するなど、積極的に教化を進めていたが、昭和19年4月、開基住職の酒匂義彦は41歳をもって往生したのである。住職在任僅か10年であった。
義彦の逝去により、弟の酒匂時雄が二代目住職として就任した。立真寺の法灯を受け継いだ時雄は、昭和23年12月、立神託児所を立神保育園と改称し、昭和32年10月には再び本昭上人の御巡化をおうけして帰敬式を行った。その後、宗祖七百年御遠忌を記念して県下初めての集団納骨堂の建築を計画し、門信徒の大多数が加入して昭和37年3月完成するに至った。同年4月2・3日の二日間、盛大に落慶法要が厳修された。
昭和50年4月1日2日の両日、創立40周年及び宗祖誕生八百年の記念法要を勤め、稚児400人余りの参加で賑わった。記念事業として本堂の屋根瓦を一新し、天井の張り替えを行った。
現在、聞法の為同朋会並びに仏教婦人会が結成されており、法義引き立ての為努力している。
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