〈寺院紹介〉浄圓寺
鹿児島市谷山中央4丁目4830
℡ 099-268-2327
<沿 革>
興正派谷山説教所が創設されるまでは、この地の信者は興正寺鹿児島別院の直門徒として結集していた。中でも有川喜左衛門などは、本寂上人御巡錫のあと、上人に帰依し別院のお番役として護法に務めたが、明治5年にすでに自筆で領解文を書写していることから、念仏禁制の頃からの熱心な念仏者であったと思われる。
明治34年8月、当地に鹿児島興正寺別院の直轄寺院として興正派谷山説教所が創設された。最初神館性海が駐在教師として着任し布教に当たったが、その後明治38年11月8日には原田了吟(旧姓林)が着任、土地の人々から「中の寺」と呼ばれている今日の浄圓寺の礎を築くことになったのである。
原田了吟は香川県大川郡三本松の勝覚寺衆徒林円教を父として、明治9年2月6日勝覚寺において生まれた。12歳にして仏門に入り、明治25年17歳の時日向灘を経て鹿児島に到着。以来県下各説教所にあって布教ならびに修道に従いかたわら東洋大学の前身哲学館の講義によって学び、時の井上円了博士より掛軸一幅の褒賞を受けた。後に原田姓を名乗り、29歳の時谷山説教所の担当教師に任命されたのであった。
その後明治40年10月15日、谷山説教所担当教師の満期交代を命ぜられたが、この時門信徒の信望厚く、願望により明治41年5月1日、原田了吟は谷山説教所の無期担当教師に就任したのである。
その間、説教所は堅山愛次郎宅や伊牟田甚兵衛の借地などを移転したが、大正5年、原田了吟は私財を投じて現在の約250坪の境内地を買い求め、大正7年門信徒の協力を得、また木屋宇都の民家が材料を提供されるなどして約35坪の現在の本堂を建立したのであった。また同じ年原田了吟は私財をもって約28坪の庫裡も建設している。
やがて昭和14年9月2日、64歳をもって原田了吟は往生。あとをうけて二男原田秀円が谷山教会の主管者を継承した。のちに宗教法人令成立により昭和23年2月28日、浄圓寺の寺号公称が認可されてからは原田秀円が浄圓寺初代住職として就任した。
なお浄圓寺には昭和27年創設された仏教婦人会があり、現在も熱心な活動が続けられている。
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