〈寺院紹介〉香福寺

薩摩郡里村里1933

℡ 09969-3-2279


 <開教以前>

 真宗の島といわれる甑島は、開教以前より念仏信仰が盛んで、禁制下でも極秘の中に熱心な組織活動が展開されていた。甑島という地理的特殊性は、念仏思想を享受し助長する大きな要素になったといわれるが、現在鹿島村に残る藺落という念仏発祥地や、里村の隠山村東の上方海抜200メートル程の山中に残るかくれ念仏の遺跡などは、当時の模様をよく物語っている。甑島における念仏弾圧は、天保6年と10年、文久2年と3回にわたって行われているが、いずれも念仏廃止の命を浸透させるには至らず、むしろ村人の信仰を強化させる役を担うことになったともいえる。今日でも遠洋に出漁する時、漁民たちが正信偈和讃・御文章等を携えていく習慣は、その頃如何なる所でも聞法の場として活用し得ていたことを教えてくれるものである。

 <沿革>

 香福寺の前身興仁教会は、明治33年5月29日に創設されている。当時この創設に尽力したのは、大山強右ェ門、橋口賢五、石原善之助、西薗喜右ェ門等の人々であったが、その後、明治34年5月には村岡権介を責任者として、本堂、庫裡も新築、また35年には野島与兵衛夫妻によって荘厳用仏具が、橋口荘一によって喚鐘がそれぞれ寄進されるなどして、やがて38年4月17日興仁教会の開播式が厳修されたのであった。

 明治39年5月19日には、興仁教会も香福寺と寺号公称され、翌40年には別院院長田宮宗忍導師のもとに慶讃法要も厳修された。そして43年には門主本常上人も御下向され帰敬式が行われるなど、ここに香福寺は別院直轄寺院として、順調な教化路線を発足させたのであった。以後多くの駐在教師、代務者が赴任して布教にあたってきたが、その中明治36年に香川県より来島した川西樹心は、のちに香福寺住職として法耕に尽力したが、他面甑島の鹿の子百合栽培にも着眼し、この島の産業発展を計るべく東奔西走し、百合気違いとまで噂されたのであった。しかし師の果たした功績は偉大で、その足跡は今日も人々から高い評価を受けている。


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真宗興正派鹿児島教区