開教150周年
1.開教以前の鹿児島の真宗
鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。
「阿弥陀仏の前ではすべての人が平等である」という教えを説く浄土真宗は、封建制度を脅かすと考えられ、真宗の信仰に対し極めて厳しい弾圧が行われるようになりました。
それ以来、真宗の信者に対する取締は行われてきましたが、慶長2年(1597)2月22日、第17代藩主島津義弘によって正式に真宗が禁止され、ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩における浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。
1-1.念仏禁制の背景として考えられているもの
● 武家社会における団結の警戒
戦国時代や江戸時代の武家社会において、為政者たちは「団結」を非常に恐れていました。織田信長は石山本願寺を11年にわたり攻めても落とせず、徳川家康も三河一向一揆に苦しんでいます。浄土真宗は強い結束力を持つ信仰集団であり、それが当時の政治体制にとって脅威となっていたのです。
● 豊臣秀吉の薩摩攻め
豊臣秀吉が島津を討つために薩摩に攻め入った際、本陣を川内の太平寺という寺院に置きました。彼が容易に攻め込めたのは、以下のような説があるからです。
顕如上人が「南無阿弥陀仏」の旗を掲げて進軍したため、真宗の信者が戦わずに道を明け渡した。
長島や出水の浄土真宗の信者が道案内をした。
真宗の僧が間者(スパイ)として秀吉軍に協力した。
これらの話が事実であるかは定かではありませんが、こうした背景が「浄土真宗=裏切り者」という印象を与え、取り締まりのきっかけになったとも言われています。
● 庄内の乱と伊集院幸侃
慶長4年(1599年)に起きた「庄内の乱」では、島津家臣の伊集院幸侃(ゆきただ)が反乱を起こしました。彼が熱心な浄土真宗の信者だったこともあり、この事件を機に、藩は真宗の信者に対して強い警戒を持つようになります。
1-2.念仏禁制下の薩摩藩の真宗
薩摩藩は「宗体改め方」という部署を設け、真宗を厳しく取り締まりました。こうした取り締まりから逃れるために、浄土真宗の信者たちは自然と、役人の目の届かない場所に集まり、互いに信仰を支え合いました。彼らは「講」と呼ばれる秘密の集まりを作り、団結を深めていきました。これがいわゆる「かくれ念仏」です。
これらの講は「灯明講」「仏飯講」「御影像講」などと呼ばれましたが、念仏の集まりであることを隠すために、「煙草講」「椎茸講」「細布講」など、一見して信仰と無関係に見える名前を付けた例もあります。
この取り締まりは、廃藩置県で藩制度が廃止された後も続き、明治9年の信教自由令によりようやく終わりを迎えることになります。
1-3.廃仏毀釈
江戸幕府の最後の将軍である徳川慶喜は、慶応3年(1867年)、政権を朝廷に返上しました。これにより「王政復古」の大号令が発せられ、戊辰戦争、江戸城の無血開城を経て、およそ260年続いた江戸時代は幕を閉じ、天皇を中心とする明治時代へと移行していきます。
この激動の時代、政治体制だけではなく宗教界にも大きな改革が起きました。明治新政府は、政治の中心に天皇をおく体制へ戻すという理想を掲げ「祭政一致(さいせいいっち)」を目指しました。
明治元年(1868年)には「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」が出され、千年以上続いてきた神仏混合の形をやめ、神と仏を明確に区別するよう命じられました。この思想は過激化し、単に神と仏を分けるだけにとどまらず、仏教の排除、つまり「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」へつながっていきました。
薩摩藩では明治元年から2年のあいだに藩内のすべての寺が廃され僧侶が還俗する事態となりました。
藩内の寺院数:合計1,066ヶ寺
- 鹿児島城下の町:118ヶ寺
- 大隅国の郡村・諸島:318ヶ寺
- 薩摩国の郡村:390ヶ寺
- 日向国諸県郡:240ヶ寺
僧侶数:約2,964人
短期間で徹底した廃仏を成し遂げられた理由として考えられるもの
地元の多くの民衆が「かくれ一向宗」の信者であり、地元の寺院との関係は形式的なもので、寺への愛着が薄かった
他藩では寺が戸籍管理など一定の行政権を持っていたが、薩摩藩ではそうした権限を与えられておらず、寺院が無力だった
1-4.信教の自由
明治6年には美々津県と都城県が廃止され、日向国全体が宮崎県に編入されました。また、都城県に属していた大隅は鹿児島県に組み込まれます。さらに明治9年8月、宮崎県も廃止され(明治16年に再置)、薩摩・大隅・日向の三国すべてが鹿児島県として統合されました。
すでに日向では信教の自由が許されています。徹底した廃仏をおこなった鹿児島と信教の自由が許される日向を統合する、ここに信教の自由を薩摩にも許すか否かという大きな問題が生まれます。
こうして迎えた明治9年9月5日、西郷隆盛の助言もあって、鹿児島県参事田畑常秋の名で、信教の自由が布達されたのです。
信教の自由の要因
宮崎県では明治6年から信仰の自由が認められており、仏教も許容されていた
西郷隆盛「宮崎県に再び念仏禁制や廃仏を強いるのは無理がある。公然と仏教を認めたうえで、本願寺に正しい教義を持 ち、立派な僧侶を選ばせて布教させるのであれば何の害もない。むしろ神官たちもそれに刺激を受けて努力するようになる」
2.興正派の歩みと別派独立
2-1.興正寺の成り立ち
親鸞聖人が越後流罪を赦免されたのち、京都へ立ち寄ってから関東へ行ったという、「一時帰洛説」を寺伝にもつ
親鸞聖人の関東の門弟をルーツにもち、独自の教化伝道で栄える
佛光寺経豪(蓮教へ改名・興正寺14世)が文明14年(1482年)頃に48坊のうち42坊を引き連れて本願寺に合流
→ 江戸時代になると本末制度で主従関係を強いられ、内政干渉にさらされる
2-2.別派独立の契機とされる大教院
・キリスト教圏の諸外国の脅威、神道による国家運営を目指す政府、廃仏毀釈
→仏教諸派が宗派を越えた連携をしなければならない→大教院の設立
大教院…神官のみが許された教導職(神道国教化のために国民を教化する職)を僧侶にも認めるための機関で、教導職僧侶の養成を行う。 本寂上人は設立に伴い大教院教頭となる(明治6年辞任)
※明治8年に真宗が大教院から分離、同年4月30日「神仏合同布教禁止の令」、5月3日に大教院を解散・閉鎖。
2-3.別派独立
明治9年9月13日に興正寺は一派本山として本願寺より別派独立を果たしたものの、全国に三千余ヶ寺あった興正寺の末寺が一挙に、三百余とへ激減します。
3.真宗興正派の鹿児島開教
3-1.開教の祖 本寂上人
上人は諱(いみな)は「摂信」法名を「本寂」号を「葵山」といい、関白太政大臣鷹司政通の第二子で、二歳で興正寺に入山されました。
本寂上人の生い立ち
幼少の頃から宗学、漢籍に親しまれ、博学強記の人でありました。また明治維新の際には、勤王僧として王事に奔走されました。 西本願寺が財政困窮した際は、その整理に興正寺門徒・大根屋小右ェ門を説得し、これを助けました。明治元年一月には、佐幕派と見られ薩摩藩の手により焼き打ちにされることになっていた東本願寺を、山階宮と力を合せて焼き討ちを防ぎます。また、賊徒の汚名をきせられていた高松藩・桑名藩を助けるなどの働きをされ、席の暖まる日がなかったほど多忙を極めていたと言われます。
本寂上人の鹿児島開教
明治9年10月には東京教務出張所より帰山し、大和方面の巡教をされる予定でしたが、「三邦丸が鹿児島に向けて出航する」との知らせを受けられ、大和巡教を中止し、急遽鹿児島開教へと10月8日出発されます。本寂上人は鹿児島に着かれるや築町に仮掛所を設けて、御門跡自ら法座に登られ活躍されました。
念仏禁制下にあったが民衆の多くが一向宗信者であった。
9月には第一陣として布教が達者である鈴木亮慧、橘清海が、第二陣として10月4日に真田黙雷ほか5名が入薩して上人の御下向を待ち受ける。
東西本願寺も開教にあたり布教使を送り込むが、興正派は御門跡が先頭に立ち、開教をおこなう。生れて始めて御門跡様を直々に拝めるということ、また、本寂上人が島津家の姻籍でもある五摂家の鷹司家の出であることには大きな反響があり、県民に与える印象は、他派・他宗の開教使とは大きく違っていたと考えられる。
上人は法座の合間に、朝は県庁を訪れ、夕には島津の門をたたかれるという多忙さ。
本寂上人は、ひと月近くの不自由な生活、馴れない気候という御苦労が重なり、病に倒れ、11月7日「豊瑞丸」で帰山の途につく。
11月24日には連枝(子)であられる信暁は豊瑞丸で鹿児島に下向される。
本寂上人はその後、鹿児島でのご病気が回復されず、明治10年12月12日、往生されます。世寿70才。大慶喜心院と諡されました。
西南戦争
明治10年2月、西南戦争がおこり、明治10年9月24日 西郷隆盛自刃
鹿児島別院設立
明治11年5月16日に説教所設立(鹿児島県庁隣りの小川町元琉球館前)、30日に許可。6月に仮堂が完成。11月4日に興正派鹿児島別院の称号が認可となります。
4.鹿児島教区の教線拡大
最初は短期で来鹿し、四国等に帰る法中も多かったが次第に鹿児島に定住する者も現れる。
別院を中心に各地の道場へ法中を派遣していく
やがて、その地に定住、道場は寺号公称して寺院へとなっていく
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