〈寺院紹介〉教行寺

南九州市知覧町東別府10317-5

℡ 0993-84-0843


 <沿革>

 開基住職の早川教雄は京都府相楽郡の出身で明治30年11月鹿児島に来る。やがて大正2年6月頴娃村上別府の青戸説教所に初代駐在教師として赴任した。在任中知覧村浮辺の朝隈次右ェ門から細布講への布教の依頼を受け当地に来る。そして次右ェ門をはじめ朝隈武熊・安藤澤助から御本尊(黒こげ本尊)の謂われと、一宇建立の願いを聞いた教雄は、同浮辺の別院の直門徒(明治25年帰属)の世話人でもあった山口休次郎・弥栄浅太郎等からも一宇建立の懇請をうけ、黒こげ本尊を奉載し一寺創設を決意した。

 まもなく教雄は別院の役目を辞任し、有馬浅助の世話で松下一枝の空き家を借りて大正3年2月6日、浮辺仮説教所として布教の第一声を挙げた。

 これに当たり、特別の寄進が寄せられた。2月21日洋灯(ランプ)1個・バケツ2個・シヤク1つ・カナビン1個=以上世話人中より、火箸2本=山口休次郎、土火鉢1つ=朝隈新二郎、洗い桶2つ=森喜次郎、茶碗10人前・タライ1個・サヲ竹1本・カンドックリ1=朝隈武熊、竹ショケ1=朝隈伝之丞、タタミ3枚=上野仁左右ェ門、タタミ3枚=朝隈長蔵、タタミ3枚=朝隈甫、タタミ3枚=松下一枝、以上のような姿で発足した。(『みあかし』鹿児島開教史24ヨリ)

 そして上野林左ェ門・池田伊左ェ門等の協力を得て、上野仁左ェ門の提供した462坪の敷地に、翌大正4年30坪の仮本堂を建築し、また同年7月黒こげ本尊を修復した。その後昭和2年に説教所の認可を受けたのである。

 また、教雄は、かねて念願の鐘楼建立の実現を計り、田中才一郎・佐多卯之助・山口休次郎・村永加・有馬伊十郎等の力を得て、総額840円をかけて昭和3年5月起工し、同年10月我が派の末寺では県下初めての鐘楼が完成した。そして10月15日、田宮宗淳輪番をはじめ7名の法中を迎えて撞初法要が厳修された。然し戦時中の供出により、現在は土台が残っているのみである。

 その後上野仁左ェ門が筆頭世話人となり、村永加・山口重吉・武田健の協力を得て、昭和6年1月本堂を起工し、同年9月宮造りの本堂62坪が完成した。然し工事費が不足し瓦のない状態であった。その為教雄は、三部経の26709字の御文にあやかり、一人5銭ずつの寄進を願い、漸く2年後の昭和8年10月に屋根瓦が葺かれたのである。教雄は26709枚の板を造り、一字書いては合掌三礼して、一年がかりでこれを結願した。そして20人の法中が3日間かかって千部経(阿弥陀経一千巻)を勤め、この板を埋めて塚を建てたのが当時境内の三経塚の由来である。

 昭和12年3月「教行寺」と寺号公称したが、昭和23年3月、開基の早川教雄は74歳で往生し、教雄の四男、早川栄雄が2代目住職として就任した。然し昭和36年4月、在任僅か13年で栄雄は47歳をもって往生し、現在、栄雄の長男の早川教栄が3代目住職として昭和50年よりその任に就いている。

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